集団と自由と信仰と  

【信仰の自由】

 日本には信仰の自由がある。憲法に明文化される前から、もともとこの国には八百万の神がいたし、仏陀も天照もキリストも世界の国々と比べると大分と寛容に認めてきた風土もある。

 権利として認められている以上、何を信じるかは自由である。

 信仰には圧倒的な力があり、信者で固まれば、そこはとても幸せな世界だと感じる人も多いことは認めるし、これまでの人類の歴史が物語っているのも事実である。繰り返しになるが、この力を使って人々は不安から逃れ、幸せを感じてきた人も多くいただろう。

 私も、私以外の人が好きなものを信じることは否定しない。

 しかし、それには前提条件が二つある。

 一つは思考力がある状態で、自分で選んだものであるということ。もう一つは他人に迷惑をかけない信仰であるということだ。

 今のところ、一般の宗教と異なり、カルト宗教はこの二つを守れていないので私はこれらを否定する立場である。

 勧誘の方法がマインドコントロールになっている可能性は十分に考えられるし、勧誘という行為は断るのにも力を使うため、迷惑だと感じているからだ。

 一方で、よく問題とされている献金については、どの宗教でもあるだろうから個人的にはあまり問題だとは思っていない。例えば仏教であっても、お経を読んでもらった時にはお布施の「相場」があるし、寺院の改修等にも檀家の立場によって寄付の「相場」はある。壺は売っていないかもしれないが、戒名はなんとなく必要で、戒名をもらうためにはやはりお布施が必要である。いっしょにしたら仏教信者からはお叱りを受けるかもしれないが、お金に関してはあまり変わらないように感じるのだ。

 それぞれの人が自分の価値観に基づいて、価値があると思ったものに支払っているのでは問題が無いようには思うのだ。自己責任の範疇だと私は考える。

 マインドコントロールにしても、仏教のお坊さんが、死んだ後に極楽浄土があるという話をしているのを多くの人に信じさせているのと何が異なるのだろうか。

 二世・三世の問題に関しても、私の家はある宗派の仏教に入信しているようであるが、親から「違う宗派にするか?」などと聞かれたことはないし、私の両親も祖父母から聞かれたことはないだろう。だが、法事の時にはお経が書かれた本のようなものを渡され、祖父母の家に行けば仏壇に手を合わせるよう促された。これも捉えようによっては、「強制」である。

 だが、仏教は社会問題にならないし、私自身、幼少から仏教を「強制された」とは感じていない。この違いは何なのだろうか。

 私の考えでは、カルト宗教と一般的な宗教の違いは2点あると思う。

 一つ目は歴史の有無、そして二つ目は勧誘行為の有無だ。

 歴史があり、地域に根付いているものは、その良しあしはともかくとして、問題とならない。また、強い勧誘がないことも信仰の自由に反していないような感じがする。

 一方、新興宗教はその勢力を拡大するために、不利な立場でスタートし、強引に勧誘を繰り返していかなければならないのかもしれないが、信仰の自由が認められているこの国で、そこまでして思想を広げる理由は何なのか疑問である。歴史は容易には作ることができない。教祖が生きている時点で広く認められることは困難なのかもしれない。また、そもそも多くのカルト宗教と呼ばれる教団の教義に「勧誘すること」と入っており、それが活動の大半を占めている時点で、信仰とは異なる気がしてしまう。

 信仰は不安を取り除いてくれるのだろうが、私は自分で取り除きたいと考えているし、幸いにして、神の力を借りなくても、多くの人たちと繋がれるコミュニティも持ち合わせている。さらには大衆を統治しなければならないような立場ではないので、大衆を統治するために宗教の力を借りる必要はない。よって、これからも宗教に入信することはないだろう。葬式は仏教だし、結婚式は教会、神社に初詣にも行くが、それは慣習として行くわけで、それぞれの神には不敬かもしれないが信仰としては今後も大きな意味を持ち合わせることはないだろう。

 自分を、周りを信じて生きていく方が、私にとっては楽しい人生だと思うからだ。来世などにも興味はない。失敗も悲しいことも自分のせいだと思いたい。

 敢えて言うのであれば、私は目に見えない神様を信じて生きるよりも、目に見える家族・友人・同僚を信じて生きるという信仰の自由を選択する。自由は選択できるということだ。選択肢を自ら減らすような行動を私は取りたくない。

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