2006 06 立我 Autonomy
ー 潤平 ー
軟禁されてから半年が経ち、昨日ようやく母さんも秋田に帰った。「今日で辞めさせていただきます。」
目の前の男は少し目線を上げると、すぐに手元の書類に没頭しようとした。
「わざわざ来なくてもわかってたから。」
小さな声でその男は言った。
関西支局を出て、下宿先へと帰路につく。
引き止められた時のことを考えた時間は無駄だった。所詮、こんなものだったのだ。俺が信頼だと思っていたのは神様を通してでしか有効ではない薄っぺらなものだということを確認できた。
来て良かったと思った。父さんたちからは、二度と会うなと言われていたが、ケジメをつけておきたかった。
それにしてもこんなにも弱いものだったとは残念極まりない。
迫害されるということは正しいことをしている証拠ではなかったのか。
俺はもう、あの聖書の勉強会で習ったことからは解放された。カトリックの牧師が一月をかけて聖書の全容を教えてくれたからだといいたいところだが、申し訳ないが、牧師のおかげで解放されたわけではない。
実際のところ牧師が話してくれたカトリックの教えより、原初の教えの方が、より生活に直結するような教えだと思った。
では、なぜ気付いたのか。
自分で聖書を全文読んだからだった。それまで俺は全文を読んだことはなかったのだ。
彼らが触れなかった部分を知ることで、彼らがどれだけ自分勝手に都合の良い部分を抜き出し、さらにそれを勝手な解釈としていたかということに気付いた。
結局世の中そういうものなのだろう。
与えられる側になると、コントロールされるのだ。自ら掴み取りに行かなくては負けなのだ。
サッカーを通して、俺はそれを知っていたはずだった。反省しなくてはならない。
牧師の最後の話が終わった後、俺は家族にそこで初めて謝った。
父さんは、強引な方法を取ったことを謝ってきた。母さんはただただ泣いていた。楓は泣きながら抱きついてきた。
原初に入った頃は楽しかった。何事にも穏やかで、子供のように目をキラキラさせながら夢を語る人たちを見て、俺もこんな風に生きていきたいと思っていた。
でも、楓の温もりを感じて、自分が間違っていたと思った。あの世界は神様を信じない人を切り離すようにできている。周りの人より、神様が一番になってしまう。それは自分が少し前まで一番大切だと思っていた人の心を深く傷つける。そんなことにも気付かず、自分だけが楽しく生きていこうとしていた自分が恥ずかしい。
今でも、俺は原初で良くしてくれた人を悪くは思っていない。彼らには彼らの事情がある。
最後に一度振り返って関西支局を見る。
ここに大切な人はいなくなった。
俺は嘉人さんたちのように誰かを助けようとは思っていない。
神様が間にいなくなったとたん、今まであんなに大切だと思っていたメンバーたちも、不思議なぐらいどうでも良くなってしまった。
それよりも、早く嘉人さんと俊にありがとうと言いに行こう。
どんな顔をして行けば良いのだろうと少し悩んだが、すぐに止めた。彼らは俺のことを大切だと思っているはずだ。父さんのように、自分を責めているのかもしれない。難しいことを考えるな、少しでも早く感謝を伝えよう。
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